恋姫夢想

第二章 五斗米道の影

漢中へ来て三日。

名無し権兵衛は、ようやく自分が置かれた状況を理解し始めていた。

少なくとも、ここは彼が知る後漢末期そのものではない。

郭嘉と程昱が若い女性であること。

二人が真名と呼ばれる、極めて私的な名を持っていること。

そして、旅の途中で見かける武装した女性の割合が、明らかに権兵衛の知る歴史より多いこと。

世界そのものが違う。

だが、地理や政治情勢、人物の名には、権兵衛の知る三国志と大きな共通点があった。

「完全な別世界だけど、歴史の流れだけは似ている可能性が高いか」

権兵衛が呟くと、隣を歩く稟が振り返った。

「また独り言か?」

「考えを整理しているだけです」

「頭の中で済ませられないのか」

「口に出した方がまとまることもあるので」

「変わった癖だな」

そう言いながらも、稟は権兵衛の独り言を聞き逃さなくなっていた。

権兵衛がこの世界について語る断片は、彼女にとって興味深いものだった。

皇帝の名。

漢中の地理。

五斗米道の成り立ち。

まだ起きていないはずの動乱を予感させる発言。

どれも断定的ではなく、権兵衛自身も知識を疑っている。

だからこそ、稟は彼を単なる妄言を吐く男とは判断できなかった。

「お兄さん」

前を歩いていた風が、足を止めた。

「見えてきましたよ」

山道の先に、小さな集落があった。

家は二十戸ほど。

畑はあるが、手入れが十分とは言えない。畝の間には雑草が伸び、家畜の姿も少ない。

村の入口には、木製の小さな祠が建っていた。

五斗米道の印が刻まれている。

「ここが、最初の村ですか」

「ああ」

稟が頷く。

「二月ほど前、張魯の教団へ土地を差し出すことを拒んだ。その後、立て続けに災難が起きている」

「具体的には?」

「井戸が濁り、収穫前の畑が荒らされ、村へ来ていた商人も姿を見せなくなった」

「盗賊の被害は?」

「三度。だが、人は殺されていない」

権兵衛は眉を寄せた。

「殺されていない?」

「金と食料だけを奪っている」

「抵抗した人も?」

「怪我人は出たが、死者はいない」

権兵衛は村を見渡した。

盗賊が三度も襲撃しながら、死者を一人も出していない。

偶然とは考えにくい。

「目的は略奪ではなく、圧力でしょうね」

「やはり、そう見るか」

「村を滅ぼしたいわけじゃない。生かしたまま疲弊させて、最後に教団へ救済を求めさせる」

風が感心したように目を細める。

「そして、教団が食料を与え、井戸を直し、盗賊を追い払う。村人は張魯を救い主と崇めるわけですねえ」

「たぶん」

権兵衛は即答を避けた。

「でも、今の段階では仮説です。まず村の人から話を聞きましょう」

三人が村へ入ると、すぐに視線が集まった。

特に権兵衛は目立つ。

この三日で風が近くの町から買った簡素な衣服へ着替えていたが、髪形や立ち居振る舞いまでは隠せない。

何より、男が二人の若い女性を連れて歩いている。

警戒されない方がおかしい。

「旅の者です」

権兵衛は、最初に近づいてきた老人へ頭を下げた。

「少し、お話を聞かせてもらえませんか」

老人は権兵衛を睨んだ。

「何の話だ」

「井戸と盗賊のことです」

空気が変わった。

老人の後ろにいた村人たちが、わずかに身構える。

「誰から聞いた」

「旅の途中で噂を耳にしました」

「教団の者か?」

「違います」

権兵衛はすぐに答えた。

「ただ、本当に偶然起きたことなのか、気になっています」

老人は信じていない。

当然だった。

よそ者が突然現れ、村の事情を聞き出そうとしている。

教団の密偵だと疑われても仕方がない。

権兵衛は一度、稟と風を振り返った。

二人とも口を挟まなかった。

ここは自分が話す場面だと理解している。

「井戸を見せてもらうだけでも構いません」

「見てどうする」

「原因が分かるかもしれません」

「医者なのか?」

「違います。ただ、水が濁った理由くらいなら調べられるかもしれない」

老人はしばらく黙っていた。

その後ろから、痩せた女性が進み出る。

「見てもらいましょう」

「おい」

「このままでも、飲めないのです」

女性は疲れ切った顔をしていた。

「教団の方々は、入信すれば別の井戸を掘ってくださると仰いました。でも、そのためには畑の半分を差し出せと」

老人が顔を伏せる。

権兵衛は女性へ尋ねた。

「井戸が濁る前、何か変わったことはありましたか?」

「夜に犬が吠えました。けれど、外へ出た時には誰も」

「井戸には蓋がありますか?」

「あります」

「鍵は?」

「ありません」

権兵衛は井戸へ案内してもらった。

水面には薄い膜が浮かび、嫌な臭いがする。

稟が鼻を押さえた。

「これは酷いな」

「飲んでいませんよね」

「さすがに誰も飲んでいない」

権兵衛は桶を下ろし、水を汲み上げた。

色と臭いを確認する。

専門的な分析はできない。

だが、自然に腐敗した水とは少し違う気がした。

「最近、動物の死骸を見ませんでしたか」

「井戸の近くで鼠が何匹か死んでいた」

「いつです?」

「水が濁った翌朝です」

権兵衛は周囲を調べた。

井戸の裏側。

草の間に、不自然に土が踏み固められた場所がある。

さらに探すと、小さな布切れが落ちていた。

茶色い粗布。

村人の衣服と大差はない。

証拠としては弱い。

「稟、井戸の周りを見てもらえますか」

「何を探す?」

「靴跡です。村の人が使う履物と違うものがあれば」

稟はすぐに動いた。

風は権兵衛の隣へしゃがみ込む。

「お兄さんは、毒を入れられたとお考えですか?」

「毒というより、腐った肉か汚物を投げ込まれた可能性が高いです」

「なぜ鼠が死んでいたのでしょう」

「撒いたものを鼠が食べたか、別の毒を使ったか」

権兵衛は水面を見つめた。

「でも、重要なのは方法じゃない。誰が得をするかです」

「村が困れば、教団が得をする」

「分かりやす過ぎますけどね」

張魯が本当に裏で指示しているなら、少し露骨すぎる。

末端の信者が独断で動いている可能性もある。

あるいは、張魯を陥れたい別勢力。

決めつけるには早い。

権兵衛

稟が呼んだ。

呼び方が、いつの間にか自然になっている。

「これを見ろ」

井戸から少し離れた場所に、複数の足跡が残っていた。

村人の多くが履いている草履ではない。

底に細い鋲を打った靴。

「兵士か、武装した護衛ですね」

「教団の巡回兵は、この形の靴を使う」

老人が険しい顔で言った。

村人たちの間に、ざわめきが広がった。

権兵衛はすぐに手を上げた。

「これだけで教団の仕業と決めるのは危険です」

「だが!」

「靴は盗めます。真似もできます。足跡だけでは足りません」

村人たちの顔には、落胆と苛立ちが浮かんだ。

彼らは真実より、怒りを向ける相手を求めている。

権兵衛はその感情を否定しなかった。

「だから、次の襲撃を止めます」

老人が顔を上げた。

「止める?」

「盗賊はまた来ます。村が完全に折れていないからです」

「そんなことが、なぜ分かる」

「三度も殺さずに襲っている。目的を達成するまで続けるはずです」

権兵衛は村の畑と家の配置を確認した。

入口は二つ。

北側は山道。

南側は川沿いの細道。

家々は密集しているが、周囲には柵もない。

戦う準備はほとんどできていない。

「村で戦える人は何人いますか」

老人は渋い顔をした。

「男なら十五人ほど。女でも、鍬を持てる者はいる」

「武器は?」

「農具ばかりだ」

「弓を使える人は?」

三人。

狩りをする者がいるらしい。

権兵衛は頭の中で人数を組み立てた。

敵の数は不明。

これまでの被害状況から、十数人から二十人程度。

村人だけで正面から戦えば負ける。

稟と風に武力は期待できない。

権兵衛自身も、実戦で刀を持った集団と戦った経験などない。

剣道と柔道は役に立つ。

だが、それだけで複数の武装集団を倒せるほど甘くはない。

なら、戦わずに崩すしかない。

「この村に、酒はありますか?」

老人が怪訝な顔をする。

「少しなら」

「空の壺は?」

「何に使う」

「音を出します」

風が小さく笑った。

「何か思いついたようですねえ」

「上手くいくかは分かりません」

権兵衛は村人たちへ向き直った。

「ただ、協力してくれるなら、被害を出さずに追い返せる可能性があります」

「なぜ、そこまでしてくれる」

老人が尋ねた。

権兵衛は答えに詰まった。

自分でも、明確な理由はなかった。

この村を救っても、家族のもとへ帰る方法が見つかるわけではない。

張魯と敵対すれば、むしろ危険は増える。

それでも、何もしないという選択肢は、権兵衛の中にはなかった。

「目の前で困っている人を見たからです」

老人はしばらく権兵衛を見つめた。

「それだけか」

「それだけで十分でしょう」

風が、わずかに目を細めた。

稟は何も言わない。

だが、その横顔には、初めて権兵衛を主君候補として見る色が宿り始めていた。

盗賊が現れたのは、それから四日後の夜だった。

月は雲に隠れ、村の周囲は深い闇に包まれている。

村人たちは、普段どおり眠っているように見せていた。

明かりを消し、家の戸を閉める。

だが、実際には全員が配置についている。

権兵衛は村の中央にいた。

手には、村の鍛冶屋から借りた木刀に近い棒。

腰には短い刃物も差している。

現代の試合とは違う。

相手は本気で殺しに来るかもしれない。

指先が冷える。

呼吸が浅くなる。

怖い。

当然だった。

「緊張していますか?」

背後から風が囁く。

「してますよ」

「意外ですねえ。平然としているように見えます」

「平然としているふりをしてるだけです」

「逃げてもよいのですよ?」

権兵衛は少しだけ笑った。

「今さら逃げたら、村の人が死にます」

「お兄さんが死ぬかもしれません」

「それは困りますね」

本当に困る。

帰らなければならない。

妻と子どものもとへ。

だからこそ、無茶はできない。

「戦わないための作戦です」

権兵衛は自分に言い聞かせるように答えた。

やがて、見張り役の少年が小さな石を二度鳴らした。

合図。

北側の道から、盗賊たちが入ってくる。

十四人。

事前の想定より少ない。

全員が剣や槍を持っている。

頭領らしき男が手を上げると、盗賊たちは二手に分かれた。

動きに無駄がない。

ただの野盗ではない。

「やはり、訓練されていますね」

隣にいた稟が小声で言う。

「あれは兵の動きだ」

「教団の私兵?」

「可能性は高い」

盗賊たちは、迷わず食料庫へ向かった。

場所を知っている。

内通者がいるか、過去の襲撃で把握したか。

先頭の男が食料庫の扉へ手をかけた瞬間、権兵衛は腕を振り下ろした。

村の四方で、壺が一斉に割られた。

激しい破砕音。

続いて、家々の屋根から火のついた松明が投げられる。

ただし、盗賊へではない。

あらかじめ水で濡らした地面へ落ち、村全体を明るく照らす。

同時に、山側から太鼓と叫び声が響いた。

「囲まれているぞ!」

「官軍だ!」

「逃げ道を塞げ!」

実際に叫んでいるのは、村人たちだけだった。

だが、闇の中で音が反響し、何十人もの兵が迫っているように聞こえる。

盗賊たちが動揺する。

「騙されるな!」

頭領が叫んだ。

さすがに、すぐには崩れない。

しかし、その直後。

南側の道で、藁を詰めた荷車に火がついた。

炎が道を塞ぐ。

北側では、村人たちが木を倒して退路を狭める。

完全な包囲ではない。

だが、盗賊側には全体が見えない。

自分たちが罠にかかったという印象だけが膨らむ。

「弓!」

権兵衛の号令。

村の狩人三人が、盗賊の足元へ矢を放った。

当てる必要はない。

土へ突き刺さる矢。

敵の横を掠める矢。

一人が悲鳴を上げ、尻もちをつく。

「人数が違う! 退け!」

盗賊の一人が叫んだ。

頭領は舌打ちしながらも、退却を命じる。

権兵衛は息を吐いた。

成功した。

正面衝突は避けられる。

そう思った瞬間だった。

「待て」

盗賊の頭領が足を止めた。

男は周囲を見回し、炎の配置を確認した。

「弓は三人しかいねえ」

権兵衛の背筋に冷たいものが走る。

「叫び声も、同じ奴らが場所を変えてるだけだ」

気づかれた。

頭領が剣を抜く。

「こんな村に官軍なんざ来るものか。脅しだ!」

盗賊たちの動揺が止まる。

頭領は権兵衛を見つけた。

見慣れない男。

作戦を指揮している人間。

判断は早かった。

「まず、あの男を殺せ!」

四人の盗賊が、権兵衛へ向かって走り出した。

権兵衛!」

稟の声。

権兵衛は木刀を構えた。

一人目が剣を振り上げる。

大振り。

だが、速い。

権兵衛は半歩下がり、相手の手首を打った。

剣が落ちる。

そのまま踏み込み、喉元へ木刀を突き入れる。

男が咳き込みながら倒れた。

二人目の槍。

権兵衛は横へ避け、柄を掴む。

柔道のように相手の重心を崩し、足を払う。

男が地面へ転がった。

ここまでは対応できた。

だが、三人目と四人目が同時に迫る。

剣道に一対多数の型などない。

右から剣。

正面から槍。

権兵衛は槍を木刀で逸らしたが、右腕を剣が掠めた。

熱い痛み。

血が流れる。

「っ!」

体勢が崩れる。

槍の石突きが腹へ入った。

息が詰まり、膝をつく。

「大したことねえな!」

盗賊が槍を振り上げる。

死ぬ。

その感覚が、あまりにも鮮明に迫った。

だが、槍が権兵衛へ振り下ろされることはなかった。

銀色の光が、夜闇を走った。

槍の穂先が宙を舞う。

次の瞬間、槍を持っていた男の身体が吹き飛んだ。

権兵衛の目の前へ、一人の少女が降り立つ。

長い髪。

しなやかな身体。

手には、権兵衛の身長を超える長槍。

少女は振り返らない。

ただ、愉快そうに笑った。

「策は悪くない」

盗賊たちが後ずさる。

少女の槍から放たれる威圧感は、権兵衛にも分かった。

自分とは次元が違う。

「だが、最後まで己の手で片づけられぬのは、少々締まらぬな」

頭領が怒鳴る。

「女一人で何ができる!」

少女は槍を肩へ担いだ。

「試してみるか?」

男たちが一斉に襲いかかる。

権兵衛には、何が起きたのか完全には見えなかった。

槍が円を描く。

一人の剣が弾かれ、もう一人の足が払われる。

石突きが鳩尾へ入り、穂先が首筋の寸前で止まる。

殺してはいない。

だが、盗賊たちは数呼吸のうちに地面へ転がっていた。

頭領だけが残る。

男は怯えながら剣を振るった。

少女は身体を少し傾けただけで避け、その腹を槍の柄で打った。

男は数歩宙を浮き、地面へ落ちた。

静寂。

村人たちは、何が起きたのか理解できずに固まっていた。

少女は槍を一回転させ、地面へ立てる。

「さて」

そこで初めて、権兵衛へ振り返った。

整った顔立ち。

余裕のある笑み。

そして、獲物を見定めるような目。

「そなたが、この策を立てた男か?」

権兵衛は腹を押さえながら立ち上がった。

「そうです。助けていただいて、ありがとうございます」

「礼はよい。通りがかっただけだ」

少女は権兵衛の全身を眺めた。

「武は平凡。度胸は悪くない。策も、途中までは面白かった」

「最後に見抜かれましたけどね」

「失敗を認めるのも早い」

少女の笑みが深くなる。

「名を聞こう」

名無し権兵衛です」

名無し……聞かぬ姓だな」

「あなたは?」

少女は胸を張った。

「姓は趙、名は雲。字は子龍」

権兵衛は固まった。

まただ。

また、知っている名が出てきた。

蜀漢の五虎将。

長坂坡で阿斗を救い出した勇将。

趙雲子龍。

そして、やはり女性。

趙雲は権兵衛の反応を面白そうに眺める。

「私を知っているのか?」

「名前だけは」

「ほう。私はまだ、名を上げた覚えはないが」

「俺の故郷では、有名でした」

「ますます興味深い」

風が、いつの間にか権兵衛の隣へ来ていた。

「お兄さん。ずいぶんと頼もしい方に助けていただきましたねえ」

稟も近づく。

「礼を言う。あなたがいなければ、権兵衛は危なかった」

「礼なら本人から受けた」

趙雲は地面に倒れた盗賊たちを見渡した。

「それより、こやつらをどうする?」

権兵衛は痛む腹を押さえながら、頭領のもとへ歩いた。

男は意識を失っている。

腰の袋。

腕に巻かれた布。

靴。

すべてを確認する。

そして、男の懐から木札を見つけた。

五斗米道の印。

村人たちが騒めく。

「やはり、教団の者だったか!」

「張魯め!」

老人が鍬を持ち上げる。

他の村人たちも武器を手に、倒れた盗賊を囲んだ。

「殺せ!」

誰かが叫んだ。

「こいつらが、俺たちの食料を!」

怒りが一気に膨れ上がる。

権兵衛は村人たちの前へ立った。

「待ってください」

「どけ!」

「殺したら、張魯まで辿れません」

「こんな札がある!」

「それが本人の命令だという証拠にはならない」

「まだ張魯を庇うのか!」

「庇っていません」

権兵衛は声を張った。

腹が痛む。

腕からも血が流れている。

それでも、一歩も退かなかった。

「こいつらを殺せば、村人が盗賊を殺したという事実だけが残ります。張魯は、この人たちは信徒ではない、札を盗んだ偽物だと言えば済む」

村人たちの動きが止まる。

「生かして吐かせます。誰から命令されたのか。どこで武器を受け取ったのか。奪った食料をどこへ運んだのか。全部記録する」

「記録?」

「証言を残すんです。一人ずつ別々に聞いて、話が一致するか確かめる」

稟が理解した。

「口裏合わせを防ぐのか」

「はい。それに、こいつらが使っている武器や衣服、木札も保管する。張魯側の物資と一致すれば証拠になる」

風が続ける。

「さらに、他の村でも同じ被害が起きているなら、証言を集められますねえ」

「一つの村だけでは、張魯に握り潰されます。複数の村と商人、元信者から証言を集める」

権兵衛は村人たちを見渡した。

「怒るのは当然です。でも、今ここで殺せば、皆さんの怒りはこの十四人で終わる。張魯を止めたいなら、生かすべきです」

老人が鍬を下ろした。

「……あんたは、張魯を倒すつもりなのか」

権兵衛はすぐには答えなかった。

倒す。

その言葉は重い。

張魯は漢中で大きな勢力を持っている。

兵も食料も、信者もいる。

権兵衛には何もない。

この村を守ることさえ、趙雲がいなければ失敗していた。

それでも、ここまで見てしまった。

井戸へ汚物を投げ込み、食料を奪い、困窮した民へ救済を装って支配を広げる。

放置すれば、同じ村が増える。

「今の俺に、張魯を倒す力はありません」

権兵衛は正直に言った。

「でも、止める必要はあると思っています」

「では、どうする」

「力を作ります」

その言葉に、稟と風が権兵衛を見た。

「この村だけでは足りない。周囲の村を回って、同じ被害を受けた人たちを集める。自分たちを守るための組織を作る。張魯に逆らえば孤立する、という状況を変えます」

「組織を作って、張魯と戦うのか」

「最初から戦う必要はありません」

権兵衛の頭の中で、徐々に構想が形になる。

「まず、情報を共有する。村同士で食料を融通する。商人には安全な道を用意する。見張りと伝令の仕組みを作る。盗賊が現れたら、近くの村から人を集める」

風が笑みを浮かべた。

「小さな村を、一つの大きな村のように扱うのですねえ」

「そうです。一つずつなら張魯に潰される。でも、十、二十の村が協力すれば簡単には潰せない」

「その中心には、誰が立つ?」

稟の問い。

権兵衛は黙った。

自分はただの漂流者だ。

この世界に来て、まだ一週間も経っていない。

漢中の民でもなければ、名家の出身でもない。

統治する資格などない。

権兵衛

稟は、まっすぐ彼を見ていた。

「誰かが責任を負わなければ、組織は動かない」

「分かっています」

「ならば、そなたが立て」

その言葉に、権兵衛は驚いた。

「俺が?」

「策を立てたのはそなた。村人を説得したのもそなた。張魯を止めると言ったのもそなただ」

「でも、俺は」

「この世界の人間ではない?」

権兵衛は言葉を失う。

稟は、権兵衛が語った断片から、おおよその事情を察していた。

「出自が何であろうと、今ここにいることは変わらない」

風も頷く。

「それに、お兄さんが何もしなければ、この村の方々は殺し合いを始めていたかもしれませんよ」

趙雲が槍へ寄りかかりながら、興味深そうに言う。

「私も賛成だ」

「あなたまで?」

「私は、強者を探して旅をしている」

「俺は弱いですよ」

「武だけならな」

趙雲は倒れた盗賊たちを顎で示した。

「だが、己より強い敵を前にして、民の前から逃げなかった。策が破れた後も、他人へ責任を押しつけなかった」

少女は権兵衛の目を覗き込む。

「そして今、勝利に酔うより先に、次の仕組みを考えている」

「それは普通でしょう」

「普通ではない」

稟が即座に否定した。

権兵衛は三人を順番に見た。

稟。

風。

趙雲。

歴史に名を残すはずの人間たちが、自分を見ている。

期待するように。

試すように。

この世界へ来た時、権兵衛は帰ることしか考えていなかった。

今も、その気持ちは変わらない。

妻と子どものもとへ帰りたい。

だが、帰る方法が分からない以上、何もしないまま待つことはできない。

そして、自分が動けば救える人がいる。

ならば。

「分かりました」

権兵衛は村人たちへ向き直った。

「張魯に対抗するための自衛団を作ります」

ざわめきが広がる。

「ただし、復讐のための集団にはしません。村を守るための組織です。略奪はしない。捕虜は殺さない。食料は記録して管理する。負担は村ごとの人口と収穫に応じて決める」

村人たちには聞き慣れない言葉も多かった。

それでも、権兵衛の声には人を動かす力があった。

「俺が責任者になります」

言った瞬間、不思議な感覚があった。

後戻りできない線を越えた。

そんな気がした。

老人がゆっくりと膝をつく。

「我らを、守ってくださるのか」

「守れる仕組みを、一緒に作ります」

「同じことではないのか?」

「違います」

権兵衛は老人の手を取って立たせた。

「俺一人がいなくなったら終わる組織では意味がない。皆さん自身が守れるようにします」

老人は呆然と権兵衛を見つめた。

やがて、深く頭を下げる。

一人。

また一人。

村人たちが権兵衛へ頭を下げていく。

権兵衛は居心地が悪そうに身じろぎした。

「そんなに頭を下げなくても」

「お兄さん」

風が楽しそうに笑う。

「これが、人の上に立つということですよ」

「まだ一つの村だけです」

「最初は、誰でも一つから始めるものです」

稟が静かに言った。

趙雲は腕を組み、しばらく権兵衛を眺めていた。

名無し権兵衛

「はい」

「そなたの自衛団、この趙子龍がしばらく見届けてやろう」

権兵衛は目を瞬いた。

「加わってくれるんですか?」

「勘違いするな。まだ仕えると決めたわけではない」

趙雲は笑う。

「そなたが、私の槍を預けるに値する男か。近くで見定めるだけだ」

「それでも助かります」

「もう少し喜んでもよいぞ?」

「かなり喜んでますよ」

「顔に出ぬ男だな」

それを聞いた風が、権兵衛の袖を引いた。

「お兄さん。これで武力の問題も少し解決しましたねえ」

「少しどころではない気がしますけど」

権兵衛は趙雲を見る。

自分が盗賊四人を相手に死にかけた一方で、彼女は十人以上を瞬く間に制圧した。

もし本当に三国志に名を残した趙雲と同等の武将なら、漢中でも屈指の武力だろう。

「ところで」

権兵衛は趙雲へ尋ねた。

「趙雲と呼べばいいですか?」

少女は一瞬、きょとんとした。

稟と風も同時に固まる。

「何か、まずかったですか?」

「いや」

趙雲の口元に、いたずらっぽい笑みが浮かんだ。

「そうだな。今は趙雲と呼ぶがよい」

「今は?」

「いずれ、もっと親しい呼び名を許すこともある」

権兵衛は意味が分からず、首を傾げた。

風が小声で呟く。

「お兄さんは、真名のことをまだ理解していないのですねえ」

「真名?」

「後で説明します」

稟は顔を押さえた。

「その前に、こやつが無遠慮に誰かの真名を呼ばないよう見張る必要があるな」

権兵衛には、なぜそこまで深刻な話なのか分からなかった。

だが、この夜。

名無し権兵衛は初めて、自らの意思で人々の上に立った。

兵は、村人二十三人。

武器は、農具と弓三張り。

軍師は郭嘉と程昱。

客将として趙雲。

領土と呼べるものは、山間の小さな村一つ。

大陸を統一する勢力としては、あまりにも頼りない始まりだった。

それでも、後に漢中自衛軍と呼ばれる組織は、この夜に生まれた。

そして張魯はまだ知らない。

己が支配する漢中の片隅で。

民に手を差し伸べる一人の青年が、静かに牙を研ぎ始めたことを。