第一章 天から落ちた男
名無し権兵衛が最初に感じたのは、背中を打ちつける硬い感触だった。
「ぐっ……!」
肺の中の空気が押し出され、しばらく呼吸ができなかった。
目を開ける。
視界いっぱいに広がっていたのは、青空だった。
雲がゆっくりと流れている。
少なくとも、自宅の天井ではない。
「……どこだ、ここ」
権兵衛は身体を起こした。
周囲には背の高い草が生え、少し離れたところには深い森が広がっている。舗装された道路も、電柱も、建物も見えない。
鼻をつくのは土と草の匂いだった。
スマートフォンを取り出す。
画面はついた。
午後二時十三分。
圏外。
地図も現在位置を取得できない。
「山で遭難……にしては、おかしいな」
記憶を辿る。
直前まで自宅にいた。
机の前に座り、個人開発のコードを眺めていたはずだ。
眠った記憶もなければ、外へ出た記憶もない。
そして、もう一つ明らかにおかしいことがあった。
権兵衛は自分の手を見つめた。
皺が減っている。
手の甲も、腕も、以前より明らかに若い。
頬へ触れ、髪を確かめる。
生え際が戻っている。
「……そこまで戻す必要ある?」
思わず声が漏れた。
身体も軽い。
立ち上がり、肩を回す。
二十歳前後。
大学生だった頃に近い。
しかし、頭の中には三十二年間の記憶がそのまま残っている。仕事のことも、家族のことも、開発していたサービスの設計も、昨日食べた夕食も覚えている。
権兵衛はしばらく無言で立っていた。
家族の顔が浮かんだ。
妻。
子ども。
帰らなければならない。
その思いが胸を締めつける。
だが、焦っても状況は変わらない。
まず、自分がどこにいるのかを把握する必要がある。
「水、食料、人里。優先順位はその順だな」
感情を押し込み、権兵衛は歩き始めた。
山の斜面を下る。
草木の種類だけでは場所を特定できない。日本にも見えるが、どこか植生が違うようにも思える。
三十分ほど歩いたところで、細い道を見つけた。
舗装はされていない。
だが、人や馬が何度も通った跡がある。
権兵衛が道へ降りようとした瞬間、遠くから声が聞こえた。
「おやおや。これはまた、珍しいものが落ちておりますねえ」
少女の声だった。
権兵衛は振り返る。
道の向こうから、二人の女性が歩いてくる。
一人は長い黒髪を持ち、細身で落ち着いた顔立ちをしていた。もう一人は小柄で、柔らかな金色の髪を頭の両側でまとめている。
服装がおかしい。
現代の衣服ではない。
中国史劇に出てくるような装束だった。
権兵衛の警戒心が一気に高まる。
撮影。
祭り。
あるいは、観光施設。
最初はそう考えた。
だが、二人の衣服には作り物らしい安っぽさがない。腰には実用の武器らしきものまで下がっていた。
黒髪の女性が権兵衛を見て、露骨に眉をひそめる。
「男……?」
「そのようですねえ」
「なぜこんな場所に、あんな格好の男がいる」
権兵衛は自分の服を見る。
Tシャツに薄手の長ズボン。
確かに、彼女たちから見れば権兵衛の方がおかしい。
小柄な少女が、権兵衛の足元を見た。
「お兄さん、先ほど空から落ちてきませんでしたか?」
「見てたんですか?」
「遠くからですが、白い光が落ちるのが見えましたので」
黒髪の女性の目つきが変わる。
「白い光……」
「お兄さん。その服は、この辺りでは見ないものですねえ。お名前を伺っても?」
権兵衛は迷った。
しかし、偽名を名乗ったところで意味がない。
「名無し権兵衛です」
「ななし、ごんべえ……?」
黒髪の女性が聞き慣れない音を反芻する。
「姓は名無し、名は権兵衛です」
「字は?」
「字?」
権兵衛は首を傾げた。
その言葉を知らないわけではない。
中国史における字の意味なら知っている。
だが、現代日本人に字などない。
黒髪の女性は権兵衛の表情を注意深く観察していた。
小柄な少女は口元へ手を当てる。
「姓も名も聞いたことがありません。字も持たず、空から光とともに現れ、見たことのない衣をまとっている……」
嫌な予感がした。
「風」
黒髪の女性が少女を呼ぶ。
権兵衛はその名に引っかかった。
風。
中国風の衣服を着た少女の呼び名としては、妙に日本語的だ。
「はいはい」
「まさかとは思うが」
「おそらく稟ちゃんが考えていることと、風が考えていることは同じですねえ」
稟。
風。
二人の少女は権兵衛を見つめた。
そして、風と呼ばれた少女が、のんびりとした口調のまま言った。
「お兄さんは、天の御使いなのではありませんか?」
権兵衛は数秒間、何も答えられなかった。
天の御使い。
宗教用語なのか。
役職なのか。
あるいは、この地域に伝わる伝説なのか。
「違うと思います」
権兵衛は正直に答えた。
稟が驚いたように目を見開く。
風も少しだけ首を傾げた。
「ずいぶん簡単に否定しますねえ」
「自分が何者かくらいは分かります。少なくとも、使いではないです」
「では、どこから来た?」
稟の問いに、権兵衛は周囲を見回した。
「東京です」
「とうきょう?」
「日本という国の……」
言いかけて、権兵衛は止まった。
二人の表情に、理解の色がまるでない。
稟が尋ねる。
「倭のことか?」
権兵衛の背筋に、冷たいものが走った。
倭。
現代人が日常会話で使う言葉ではない。
「今は、西暦何年ですか」
「せいれき?」
「では、皇帝の名前は?」
稟の警戒がさらに強くなる。
だが、風は面白そうに権兵衛を眺めていた。
「今上の帝は、劉宏様ですねえ」
劉宏。
その名を聞いた瞬間、権兵衛の頭の中で歴史知識が動き始めた。
後漢第十二代皇帝、霊帝。
黄巾の乱。
十常侍。
董卓。
群雄割拠。
三国志。
「建寧、熹平、光和……今の元号は?」
「光和七年だ」
稟が答えた。
西暦換算で一八四年。
黄巾の乱が始まる年。
権兵衛は黙り込んだ。
偶然では説明できない。
自分は過去へ来たのか。
いや、そんなはずはない。
中国語を学んだ経験はない。それなのに、目の前の二人とは完全に言葉が通じている。
さらに、郭嘉や程昱のような知識人が男性ではなく女性として存在する可能性を、権兵衛はまだ考えてもいなかった。
「ここは、どこですか」
「漢中だ」
稟が答えた。
漢中。
秦嶺山脈と巴山に囲まれた盆地。
中原と蜀を結ぶ要衝。
後に張魯が五斗米道を基盤として支配する土地。
権兵衛は目を閉じた。
あまりにも情報が多い。
しかし、一つだけ確かなことがある。
ここで立ち尽くしていても、家族のもとへ帰る方法は見つからない。
生き延びなければならない。
そのためには、食料と寝床と、この時代に関する情報が必要だ。
権兵衛は二人へ向き直った。
「すみません。あなたたちの名前を、改めて教えてもらえますか」
黒髪の女性は少し迷ってから答えた。
「郭嘉。字は奉孝だ」
権兵衛の表情が固まる。
郭嘉。
曹操に仕えた天才軍師。
だが、目の前にいるのはどう見ても若い女性だ。
「風は程昱。字は仲徳ですよ」
今度こそ、権兵衛は言葉を失った。
程昱。
曹操に仕えた重臣。
史実では屈強な男性だったはずだ。
二人は権兵衛の反応を見て、顔を見合わせる。
「私たちを知っているのか?」
稟が鋭く問う。
「名前だけは」
権兵衛は答えた。
「でも、俺が知っている人とは、かなり違うみたいです」
「どういう意味だ?」
「それは……」
説明できない。
自分が知る歴史では、郭嘉も程昱も男性で、今頃は漢中ではなく別の土地にいる可能性が高い。
この世界は、単純な過去ではない。
歴史に似た何か。
三国志の人物が存在しながら、権兵衛の知る歴史とは決定的に異なる世界。
風が権兵衛の顔を覗き込む。
「稟ちゃん。やはり、このお兄さんは普通の方ではなさそうですよ」
「だからといって、天の御使いと決めつけるのは早い」
「では、しばらく一緒に歩いて確かめましょう」
「なぜそうなる」
「風たちも、仕えるに値する方を探して旅をしておりますから」
権兵衛はその言葉を聞き逃さなかった。
「仕える相手を探しているんですか」
「ええ。乱れ始めた世を治められる方を」
風の声から、先ほどまでの気の抜けた響きがわずかに消えた。
「この国は、もう長くありません」
権兵衛もそれを知っている。
まもなく黄巾の乱が起こる。
その後、後漢王朝の権威は崩壊し、董卓が洛陽を制圧する。
反董卓連合。
群雄割拠。
数え切れないほどの人間が死ぬ。
しかし、それは権兵衛が知る歴史だ。
目の前の郭嘉と程昱が女性である以上、その知識をそのまま信じることはできない。
それでも、大きな流れまで完全に違うとは限らない。
「一つ聞いてもいいですか」
権兵衛は言った。
「漢中では、今、誰が力を持っていますか」
稟が答える。
「張魯だ」
やはり。
「五斗米道を率いている?」
今度は二人が驚く番だった。
「なぜ知っている」
「俺の知っている歴史にも、その名前が出てくるからです」
権兵衛は遠くの山並みへ目を向けた。
黄巾の乱が始まれば、各地の軍も官僚も東へ目を向ける。
漢中への監視は弱まる。
史実では張魯は長く漢中を支配し、独自の宗教国家を築いた。統治者として一定の評価を受けた人物でもある。
だが、この世界の張魯が同じ人物とは限らない。
「張魯は、どんな人ですか」
稟はすぐには答えなかった。
代わりに風が言う。
「表向きは、ずいぶんと評判の良い方ですよ。信者へ食事を与え、病人を助け、罪人にもやり直す機会を与える。漢中の民からは、聖人のように扱われています」
「表向きは?」
「その裏で、信者から土地や娘を差し出させているという噂があります」
稟が低い声で続けた。
「逆らった村では、井戸が使えなくなり、商人が寄りつかなくなる。盗賊が現れることもある。だが、証拠は残らない」
権兵衛は考え込んだ。
宗教的権威。
食料配給。
地域共同体。
私兵。
情報統制。
張魯はすでに行政機構に近いものを築いている。
しかも、悪事が事実なら、表の救済と裏の恐怖を組み合わせて支配を拡大している。
正面から批判しても、民衆は信じないだろう。
官軍へ訴えたところで、中央はそれどころではなくなる。
「お兄さんは、どう思われます?」
風が尋ねた。
「まだ分かりません。噂だけで決めつけるのは危険です」
「ほう」
稟の目に、わずかな興味が浮かぶ。
「ただし、調べる価値はあります」
「調べて、事実ならどうする?」
権兵衛は答えようとして、口を閉じた。
自分は帰る方法を探すべきだ。
この世界の政治へ関わる理由はない。
張魯が悪人でも、本来なら権兵衛の問題ではない。
だが、家族のもとへ帰る方法がすぐ見つかる保証はない。
それまで誰かに養ってもらうのか。
歴史の流れを知りながら、何もせずに過ごすのか。
そして何より、目の前で困っている人を見捨てられるほど、権兵衛は割り切った人間ではなかった。
「まずは証拠を集めます」
権兵衛は言った。
「被害を受けた村を確認して、張魯の組織と金と食料の流れを調べる。敵対者が本当に盗賊に襲われているなら、盗賊と張魯側の接点も探す」
「事実だった場合は?」
「止めます」
「一人で?」
「一人では無理です」
権兵衛は稟と風を見た。
「だから、協力してもらえませんか」
あまりにも自然な言葉だった。
命令でも懇願でもない。
二人の知恵と能力を必要としていることを隠さず、それでいて自分が責任を負うことも避けていない。
稟は権兵衛を見つめ続けた。
風は目を細める。
まだ出会って一刻も経っていない。
権兵衛が天の御使いなのかも分からない。
武勇も権力も財産もない。
それでも二人は、目の前の青年に奇妙な引力を感じていた。
「稟ちゃん」
「分かっている」
稟は小さく息を吐いた。
「どうせ、私たちにも行く当てはない」
「では決まりですねえ」
風が笑う。
「しばらく、お兄さんが本当に天の御使いなのか、近くで見せていただきましょう」
「違うと思いますけどね」
権兵衛は苦笑した。
しかし、その否定を本気で信じている者は、もはや権兵衛だけだった。
この日。
漢中の名もない山道で、後に大陸最高と称される二人の軍師が、一人の青年と出会った。
青年には兵も、土地も、名声もなかった。
持っていたのは、異なる時代で積み重ねた知識と経験。
人の痛みを見過ごせない性格。
そして、自分でもまだ気づいていない、王としての器だけだった。
後世の史家は、この出会いをこう記すことになる。
――天より名無し権兵衛、漢中に降り立つ。
――郭奉孝、程仲徳、これを迎える。
――大陸統一の始まりなり。
